淡海湖耕地整理・6(石碑)
日置神社に、これらの仕事を記念した碑が建てられている。
この石碑は1946年(昭和21年)に建てられ、貯水池やトンネル工事、
開墾にされた人達の苦労と努力の一つのしるしとして、建立されたものである。

<本文内容と画像は関係ありません>
---------- 『石 碑 文』-------------------------------------
本村中部酒波伊井平崎構ノ四部落ニ亘リテ其中央部ヲ占ムル通称岡と呼ベル一
團地アリ高乾燥瘠薄ニシテ水利ノ便ヲ缺キ天輿ノ廣土曠シク荒癈ニ帰セントス
邑人
之ヲ慨スル久シ大正三年二月有志提携蹶起之ガ対策ヲ講ジ耕地整理組合ヲ組織
シテ米麥ノ増産ヲ期シタリ固ヨリ組合部落ノ興亡ヲ賭ケタル大事業ニシテ前途幾多
ノ難関ヲ豫想セラレシガ就中一大堰堤ニ縁ル貯水池ノ築設引水隧道ノ掘鑿資金ノ
調達並人心ノ把握ノ如キハ難中ノ難件タリキ当局幹部ノ苦心慘憺寔ニ筆舌ニ絶ス
ルモノアリ組合長初代松本彦平氏次代彦五郎氏父子ノ如キ為ニ二豎ノ侵ス處トナ
リテ終ニ事業ニ殉ゼラル崇高悲惨並想フベシ三代松本亀吉氏衆望ヲ負テ敢テ其
後ヲ受ケ幹部諸員ノ献身的協力支援ヲ得續出セル難件ヲ斐理按排シテ其ノ方ヲ愆
ラズ邑人ノ監勵之勗メ共同一致戮力邁進ノ途偶助成法改正ニ伴フ政府方面ノ深厚
ナル補助金激励勵邑人ノ士気昴揚ト相俟テ終ニ昭和十二年八月サシモノ大業完遂ノ
驩ヲ収ムルニ至ル此間年ヲ閲スル二十有三年資ヲ投ズル六十七萬餘圓隧道ノ掘鑿
約十一町餘貯水池ノ面積十二町一反餘畝歩開田七十餘町歩昨ノ荒癈醜蔗ノ瘠土今
ヤ井然タル美田ト化シテ其風景觀ヲ一新スルト共ニ所謂甌窶満篝汗邪満車穰々稔
秦ノ果ヲ結ブル見ル茲ニ記念ニ碑石ヲ建立シ聊其ノ概要ヲ刻シ後昆ヲシテ先人苦
闘ノ蹟ヲ偲ビ感奮興起スル所アラシメン事ヲ切ニ庶幾スル所以ナリ伝爾
三田村甚吉撰 比叡谷正顕書
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日置神社に、これらの仕事を記念した碑が建てられている。
この石碑は1946年(昭和21年)に建てられ、貯水池やトンネル工事、
開墾にされた人達の苦労と努力の一つのしるしとして、建立されたものである。

<本文内容と画像は関係ありません>
---------- 『石 碑 文』-------------------------------------
本村中部酒波伊井平崎構ノ四部落ニ亘リテ其中央部ヲ占ムル通称岡と呼ベル一
團地アリ高乾燥瘠薄ニシテ水利ノ便ヲ缺キ天輿ノ廣土曠シク荒癈ニ帰セントス
邑人
之ヲ慨スル久シ大正三年二月有志提携蹶起之ガ対策ヲ講ジ耕地整理組合ヲ組織
シテ米麥ノ増産ヲ期シタリ固ヨリ組合部落ノ興亡ヲ賭ケタル大事業ニシテ前途幾多
ノ難関ヲ豫想セラレシガ就中一大堰堤ニ縁ル貯水池ノ築設引水隧道ノ掘鑿資金ノ
調達並人心ノ把握ノ如キハ難中ノ難件タリキ当局幹部ノ苦心慘憺寔ニ筆舌ニ絶ス
ルモノアリ組合長初代松本彦平氏次代彦五郎氏父子ノ如キ為ニ二豎ノ侵ス處トナ
リテ終ニ事業ニ殉ゼラル崇高悲惨並想フベシ三代松本亀吉氏衆望ヲ負テ敢テ其
後ヲ受ケ幹部諸員ノ献身的協力支援ヲ得續出セル難件ヲ斐理按排シテ其ノ方ヲ愆
ラズ邑人ノ監勵之勗メ共同一致戮力邁進ノ途偶助成法改正ニ伴フ政府方面ノ深厚
ナル補助金激励勵邑人ノ士気昴揚ト相俟テ終ニ昭和十二年八月サシモノ大業完遂ノ
驩ヲ収ムルニ至ル此間年ヲ閲スル二十有三年資ヲ投ズル六十七萬餘圓隧道ノ掘鑿
約十一町餘貯水池ノ面積十二町一反餘畝歩開田七十餘町歩昨ノ荒癈醜蔗ノ瘠土今
ヤ井然タル美田ト化シテ其風景觀ヲ一新スルト共ニ所謂甌窶満篝汗邪満車穰々稔
秦ノ果ヲ結ブル見ル茲ニ記念ニ碑石ヲ建立シ聊其ノ概要ヲ刻シ後昆ヲシテ先人苦
闘ノ蹟ヲ偲ビ感奮興起スル所アラシメン事ヲ切ニ庶幾スル所以ナリ伝爾
三田村甚吉撰 比叡谷正顕書
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淡海湖耕地整理・5(資料)
川上村淡海湖耕地整理工事「資料」

<本文内容と画像は関係ありません>
●貯水池の大きさ
面 積 約30K㎡
貯水量 約130万トン
●トンネル工事道具 トロッコ・もっこ・くわ・じょれん・スコップ
つるはし・げんのう・のみ・水車・とうみ・など
---------------高島郡誌より-------------------------------------
【工事】
随道>>延長 六百七十二間 巾 四尺 高 五尺 勾配 千二百分ノ一
溜池>>最高水面積 十二町一反一畝歩 最高水深 四十尺
周界 二十八町十八間 満水量 十九萬立坪
有効利用水量十七萬千百六十五坪 潅漑反別 九十町歩
受水面積 三百町歩
(堰堤)延長五十間 堤高八十尺 堰堤谷巾五間 馬踏巾四間
表法勾配三割 裏同二割五分
土坪一萬五千四百四十立坪(内刃金二千百二十六立坪)
(雑土 一萬三千三百十四立坪)
(排水随道)延長五十八間 掘削断面巾三尺高四尺
暗渠三十間(内徑一尺五寸長三尺の鉄筋コンクリート土管
ヲ埋設す。)
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川上村淡海湖耕地整理工事「資料」

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●貯水池の大きさ
面 積 約30K㎡
貯水量 約130万トン
●トンネル工事道具 トロッコ・もっこ・くわ・じょれん・スコップ
つるはし・げんのう・のみ・水車・とうみ・など
---------------高島郡誌より-------------------------------------
【工事】
随道>>延長 六百七十二間 巾 四尺 高 五尺 勾配 千二百分ノ一
溜池>>最高水面積 十二町一反一畝歩 最高水深 四十尺
周界 二十八町十八間 満水量 十九萬立坪
有効利用水量十七萬千百六十五坪 潅漑反別 九十町歩
受水面積 三百町歩
(堰堤)延長五十間 堤高八十尺 堰堤谷巾五間 馬踏巾四間
表法勾配三割 裏同二割五分
土坪一萬五千四百四十立坪(内刃金二千百二十六立坪)
(雑土 一萬三千三百十四立坪)
(排水随道)延長五十八間 掘削断面巾三尺高四尺
暗渠三十間(内徑一尺五寸長三尺の鉄筋コンクリート土管
ヲ埋設す。)
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淡海湖耕地整理・3(貯水池完成)
前回(2)に書いた通り、貯水池の工事は、遠方から沢山の人夫を手配しながらの工事で、
人々の「ほんまに出来るんだろうか」の心配と不安、焦りの日々が続くのですが、人々の団結
頑張りで工事着手の1913年(大正二年)から、約10年後の、1923年(大正十二年)九月
にダム工事が終わり、トンネルへ水を出す装置も取付完了に至ったのです。

<本文内容と画像は関係ありません>
1924年(大正十三年)の冬間近の日、いよいよ貯水池に水をためる時が来たのです。最後
にダムの穴を塞ぎ、秋から春にかけての雪解け水が入り込むのを、人々は一冬不安と期待の
気持ちで待ちわびるのです。
翌年の春、深い雪が解けるのを待ちきれず、貯水池を見に行った人から「水が満々とたまっ
ている!!」との知らせを聞いた時、村中の人々は涙を流しながら喜び、地域全体が喜びで
わきかえったという事です。
1925年(大正十四年)の春、この地域に初めて水が来たのです。トンネルから、いきおいよ
く飛び出してくる水を見て、人々は不安と苦しさを乗り越えた思い出や、やり遂げた感激で、た
だただその場に立ち尽くすのみだったそうである。
その時に、取材にきていた新聞記者は、「これは農民の血と汗と涙の歴史だ」そして、この美
しく、若々しい湖をたとえて「これこそ、淡海の処女湖だ!!」と新聞の記事にして以来、この
貯水池を土地の人々は「処女湖」と呼んでいます。
続きを読む
前回(2)に書いた通り、貯水池の工事は、遠方から沢山の人夫を手配しながらの工事で、
人々の「ほんまに出来るんだろうか」の心配と不安、焦りの日々が続くのですが、人々の団結
頑張りで工事着手の1913年(大正二年)から、約10年後の、1923年(大正十二年)九月
にダム工事が終わり、トンネルへ水を出す装置も取付完了に至ったのです。

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1924年(大正十三年)の冬間近の日、いよいよ貯水池に水をためる時が来たのです。最後
にダムの穴を塞ぎ、秋から春にかけての雪解け水が入り込むのを、人々は一冬不安と期待の
気持ちで待ちわびるのです。
翌年の春、深い雪が解けるのを待ちきれず、貯水池を見に行った人から「水が満々とたまっ
ている!!」との知らせを聞いた時、村中の人々は涙を流しながら喜び、地域全体が喜びで
わきかえったという事です。
1925年(大正十四年)の春、この地域に初めて水が来たのです。トンネルから、いきおいよ
く飛び出してくる水を見て、人々は不安と苦しさを乗り越えた思い出や、やり遂げた感激で、た
だただその場に立ち尽くすのみだったそうである。
その時に、取材にきていた新聞記者は、「これは農民の血と汗と涙の歴史だ」そして、この美
しく、若々しい湖をたとえて「これこそ、淡海の処女湖だ!!」と新聞の記事にして以来、この
貯水池を土地の人々は「処女湖」と呼んでいます。
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淡海湖耕地整理・2(組合設立・トンネル工事)
高島郡誌にも登場される、松本彦平さんが「淡海湖耕地整理組合」の初代組合長に推薦さ
れたのです。
1912年(大正元年)九月に、ようやく測量にかかり、翌年の六月にこの組合がおこされ、翌
年七月にトンネル工事から始まる事になったのです。

<本文と画像は、関係ありません>
-------------------------------高島郡誌より-----------------------------
工事は晝夜其進行を圖りしも、一日行程五寸及至五尺許にして進行に伴ひ、多量の水分を含
める軟弱なる岩質に遭遇し、一時に坑内に多量の土砂流出して、工事の進行を不可能ならしめ
しが、土砂の排除に努めて二十餘日の後に復奮し、(大正)四年十二月貫通せり。
又八十尺餘の堰堤工事に於ては第一築堤の安全を保たんため排水隧道を鑿し夫より堤の本
掘に着手し、岩層を除去すること二十八尺にして初めて完全の層を得、以後漏水の關係上晝
夜兼行にて地盤までの羽金を築造すると共に、刃金雑土と築堤工事の進行を圖りしも、其他は
山深くして村内よりは程遠きを以て人夫は、此に小屋掛にて之に従事し、且又積雪の為交通断
するが故に農閑の五ケ月間は、工事中止の止むなき等にて其工事は困難を極め費用は増加し
たりしが、十二年九月堰堤の完了を得たり。
-----------------------------------------------------------------------
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高島郡誌にも登場される、松本彦平さんが「淡海湖耕地整理組合」の初代組合長に推薦さ
れたのです。
1912年(大正元年)九月に、ようやく測量にかかり、翌年の六月にこの組合がおこされ、翌
年七月にトンネル工事から始まる事になったのです。

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-------------------------------高島郡誌より-----------------------------
工事は晝夜其進行を圖りしも、一日行程五寸及至五尺許にして進行に伴ひ、多量の水分を含
める軟弱なる岩質に遭遇し、一時に坑内に多量の土砂流出して、工事の進行を不可能ならしめ
しが、土砂の排除に努めて二十餘日の後に復奮し、(大正)四年十二月貫通せり。
又八十尺餘の堰堤工事に於ては第一築堤の安全を保たんため排水隧道を鑿し夫より堤の本
掘に着手し、岩層を除去すること二十八尺にして初めて完全の層を得、以後漏水の關係上晝
夜兼行にて地盤までの羽金を築造すると共に、刃金雑土と築堤工事の進行を圖りしも、其他は
山深くして村内よりは程遠きを以て人夫は、此に小屋掛にて之に従事し、且又積雪の為交通断
するが故に農閑の五ケ月間は、工事中止の止むなき等にて其工事は困難を極め費用は増加し
たりしが、十二年九月堰堤の完了を得たり。
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淡海耕地整理・1(貯水池工事着手)
高島市のスキー場の一つである、箱館山スキー場が旧川上地区にあります。その頂上から山道を
登り下りして奥に入って行っていくと、山の中に小さな湖があります。
その湖を「淡海湖」(たんかいこ)と言っています。(通称「処女湖」)

大正2年からはじまった、生活維持のための苦労の事業がはじまりました。
明治のおわりの頃、箱館山の麓には現在の平ヶ崎(へがさき)、伊井(いい)、酒波(さなみ)、構
(かまえ)などの集落があり、この辺りの土地は、箱館山の麓の小高い所にあるため、水の便が非
常に悪く、林や原野で作物のできにくい畑が広がっているだけの土地でした。
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高島市のスキー場の一つである、箱館山スキー場が旧川上地区にあります。その頂上から山道を
登り下りして奥に入って行っていくと、山の中に小さな湖があります。
その湖を「淡海湖」(たんかいこ)と言っています。(通称「処女湖」)
大正2年からはじまった、生活維持のための苦労の事業がはじまりました。
明治のおわりの頃、箱館山の麓には現在の平ヶ崎(へがさき)、伊井(いい)、酒波(さなみ)、構
(かまえ)などの集落があり、この辺りの土地は、箱館山の麓の小高い所にあるため、水の便が非
常に悪く、林や原野で作物のできにくい畑が広がっているだけの土地でした。
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座棺の中の死者は、葬列の進行方向とは反対に向いて輿に入れられ、永年住み
慣れたわが家を見ながら、そして又死者が父親ならアトゴシをするわが子と、
対面する格好で、ノベオクリ(野辺送り)の葬列の中を、本当に最後の別れを
しながら、サンマイまで送り送られて行くのです。

昨日、親戚のお葬式のお手伝いに行ってきました。明るい話題ではないので、申し訳ないですが、
人が誕生し、世の中を育み・・・誰でもこの終焉を迎えなければなりません。人生の行事の一つとして
下手な文章で残しておこうと思います。
今は、火葬での葬儀のため、土葬の時期の、細かいしきたりに縛られ、大変な心労が必要だった
頃とは大きく違っています。
当時は、葬儀社に依頼しなくて、親戚や隣近所に世話になり、アタフタの家人でしたが、今は当時と
比べると、比較的安易なお葬式となっています。
以下の内容は、高島市(当時高島郡)北部の土葬当時の様子を思い出しながらの文章で、正確な
内容でないところもありますが、大まかな雰囲気を覚えておこうと・・・。
また、長文ですが・・ご勘弁下さい。

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慣れたわが家を見ながら、そして又死者が父親ならアトゴシをするわが子と、
対面する格好で、ノベオクリ(野辺送り)の葬列の中を、本当に最後の別れを
しながら、サンマイまで送り送られて行くのです。
昨日、親戚のお葬式のお手伝いに行ってきました。明るい話題ではないので、申し訳ないですが、
人が誕生し、世の中を育み・・・誰でもこの終焉を迎えなければなりません。人生の行事の一つとして
下手な文章で残しておこうと思います。
今は、火葬での葬儀のため、土葬の時期の、細かいしきたりに縛られ、大変な心労が必要だった
頃とは大きく違っています。
当時は、葬儀社に依頼しなくて、親戚や隣近所に世話になり、アタフタの家人でしたが、今は当時と
比べると、比較的安易なお葬式となっています。
以下の内容は、高島市(当時高島郡)北部の土葬当時の様子を思い出しながらの文章で、正確な
内容でないところもありますが、大まかな雰囲気を覚えておこうと・・・。
また、長文ですが・・ご勘弁下さい。
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高島市(旧高島郡)、鯖街道にはじまり、湖上交通の汽船・・念願の江若鉄道・・そしてJR湖西線へと
生活の中での交通網が変化してきましたし、これからも変動するのでしょうが。当時の様子を・・。
少し江若鉄道「お別れ記念行事」の模様を・・・。
昭和44年10月31日で、江若鉄道株式会社は営業運転を終了し、翌日11月1日「さよなら列車」
が運転され長年の愛願に応えたようです。

今津駅での「記念行事」の様子は、当時の写真を見ながら書いてみたのですが、沿線の各町村で
も多彩な行事が行われたようで、その模様も詳しくは表現出来ませんがちょこっと書きます。
近江今津駅では、前回と重複しますが9:30分よりホームで今津小学校鼓笛隊230人が賑やか
に演奏し、保育園児ほか80人が小旗を打ち振って別れを惜しんだそうで。
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生活の中での交通網が変化してきましたし、これからも変動するのでしょうが。当時の様子を・・。
少し江若鉄道「お別れ記念行事」の模様を・・・。
昭和44年10月31日で、江若鉄道株式会社は営業運転を終了し、翌日11月1日「さよなら列車」
が運転され長年の愛願に応えたようです。
今津駅での「記念行事」の様子は、当時の写真を見ながら書いてみたのですが、沿線の各町村で
も多彩な行事が行われたようで、その模様も詳しくは表現出来ませんがちょこっと書きます。
近江今津駅では、前回と重複しますが9:30分よりホームで今津小学校鼓笛隊230人が賑やか
に演奏し、保育園児ほか80人が小旗を打ち振って別れを惜しんだそうで。
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十数年前の記録からですので・・・ご承知下さい。それとまた、長文ですが・・すいません。
(旧)安曇川町の県立安曇川文化芸術開館で、「以前、教養講座で江若鉄道関連の講座あり
、運良く「川島宇一郎と安原仁兵衛」-明治と大正の政治家-という講座が開かれていて、そ
の資料貰ってきていました。
次第として
1 はじめに
2 人物研究は年譜づくりから
3 ”滋賀県議会の父”川島宇一郎
・・・明治時代の政治家 「滋賀県議会史」第1巻
4 ”江若鉄道生みの親”安原仁兵衛
・・・大正時代の政治家 「滋賀県議会史」第3巻
「滋賀県会会議録」第11号
「立憲政友会滋賀県支部党誌」
5 むすびに変えて
二人の政治家に共通するもの
と題して、開講さてれいました。
残念ながら、出席していませんので詳しくお伝えできませんが、大まかに見ますと次の通りです。
資料としては、川島宇一郎氏の1841年(天保12)10月5日高島郡長尾村に生まれてから県
会当選、県会議長、衆議院当選、高島銀行頭取就任、等の経歴の年譜案が図表にされ資料に。
同様に、安原仁兵衛年譜案があり、以前に書いたような経歴があり最後に、1931年昭和の6
年8月6日江若鉄道雄琴駅にて事故死、58才とあります。
江若鉄道の敷設に尽力した人々は沢山あったのは勿論ですが、その中でも安原さんは、敷設免
許が許可されるまでの最後の締めくくり、後に江若鉄道専務取締役としての働き等、産み親・育て
の親という重要な人物でした。
政治の力で、左右された鉄道ですが、国民党であった安原氏が、江若鉄道実現のため、自らの
思想をまげて政治生命を賭け政友会へ入党で、その代替えとした。その、最期には、不慮の事故
で亡くなるという、運命をたどった人でした。

安原仁兵衛は・・。
呉服商安原仁右衛門の長男として、1874年(明治7年)10月18日に南市に誕生した。
29才のとき上京し明治法律学校(現:明治大学)に入学。1904年(明治37年)3月、3
1才で卒業。故郷帰って、所得調査委員に奉職、その後、1907年(明治40年)10月5
日に高島郡会議員に初当選。
続きを読む
(旧)安曇川町の県立安曇川文化芸術開館で、「以前、教養講座で江若鉄道関連の講座あり
、運良く「川島宇一郎と安原仁兵衛」-明治と大正の政治家-という講座が開かれていて、そ
の資料貰ってきていました。
次第として
1 はじめに
2 人物研究は年譜づくりから
3 ”滋賀県議会の父”川島宇一郎
・・・明治時代の政治家 「滋賀県議会史」第1巻
4 ”江若鉄道生みの親”安原仁兵衛
・・・大正時代の政治家 「滋賀県議会史」第3巻
「滋賀県会会議録」第11号
「立憲政友会滋賀県支部党誌」
5 むすびに変えて
二人の政治家に共通するもの
と題して、開講さてれいました。
残念ながら、出席していませんので詳しくお伝えできませんが、大まかに見ますと次の通りです。
資料としては、川島宇一郎氏の1841年(天保12)10月5日高島郡長尾村に生まれてから県
会当選、県会議長、衆議院当選、高島銀行頭取就任、等の経歴の年譜案が図表にされ資料に。
同様に、安原仁兵衛年譜案があり、以前に書いたような経歴があり最後に、1931年昭和の6
年8月6日江若鉄道雄琴駅にて事故死、58才とあります。
江若鉄道の敷設に尽力した人々は沢山あったのは勿論ですが、その中でも安原さんは、敷設免
許が許可されるまでの最後の締めくくり、後に江若鉄道専務取締役としての働き等、産み親・育て
の親という重要な人物でした。
政治の力で、左右された鉄道ですが、国民党であった安原氏が、江若鉄道実現のため、自らの
思想をまげて政治生命を賭け政友会へ入党で、その代替えとした。その、最期には、不慮の事故
で亡くなるという、運命をたどった人でした。
安原仁兵衛は・・。
呉服商安原仁右衛門の長男として、1874年(明治7年)10月18日に南市に誕生した。
29才のとき上京し明治法律学校(現:明治大学)に入学。1904年(明治37年)3月、3
1才で卒業。故郷帰って、所得調査委員に奉職、その後、1907年(明治40年)10月5
日に高島郡会議員に初当選。
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投稿する話題の時期がずれているんですが・・ご勘弁を。
滋賀県では、江州音頭がもちろん有名なんですが、高島市では昔から「高島音頭」も
盛んに夏祭りの中心でした。でも、最近では数多くの「盆踊り」が実行されなくなり、世の
流れと思えば仕方ないのかもしれませんが・・・。

どこの地方にでも、夏になると盆踊りが行われていて、私の集落でも、8月の盆休みを
利用して壮年人間が中心となって盆踊りが復活していました。櫓は昔より寺の境内に
保管されており、私が幼いときはそれを利用して賑やかに威勢のいい音頭が聞こえて
いました。
こんな立派な櫓があるのだからと、それがきっかけとなり復活したのですが、毎年賑や
かに行われ、楽しみに都会から里帰りする人もありました。
県下では「江州音頭」が定番ですが、高島郡でも江州音頭が聞ける場所もあるようです
が、高島音頭の盆踊りも賑やかです。実際江州音頭と高島音頭の違は微妙で私には申
し訳ないですが分かりません。
しかし、数年前からちょっと休憩しています。経費も必要、準備スタッフの不足、盆踊りに
興味を示さなくなった・・若い人・・などで、櫓は眠っています。
私自身、盆踊りは大好きですが、この高島音頭の由来などは詳しくは分かりませんので、
高島音頭保存会の作られた冊子から抜粋させていただきます。
また、長文ですが・・ご了解下さいね。

高島音頭の由来
高島郡一円に伝承されている音頭で、起源は今より7百年程前より行われていたようだが、
高島郡は織田軍の兵火で神社仏閣及各主文化資料に至るまで焼失したので詳かにするこ
とは困難だそうです。
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滋賀県では、江州音頭がもちろん有名なんですが、高島市では昔から「高島音頭」も
盛んに夏祭りの中心でした。でも、最近では数多くの「盆踊り」が実行されなくなり、世の
流れと思えば仕方ないのかもしれませんが・・・。
どこの地方にでも、夏になると盆踊りが行われていて、私の集落でも、8月の盆休みを
利用して壮年人間が中心となって盆踊りが復活していました。櫓は昔より寺の境内に
保管されており、私が幼いときはそれを利用して賑やかに威勢のいい音頭が聞こえて
いました。
こんな立派な櫓があるのだからと、それがきっかけとなり復活したのですが、毎年賑や
かに行われ、楽しみに都会から里帰りする人もありました。
県下では「江州音頭」が定番ですが、高島郡でも江州音頭が聞ける場所もあるようです
が、高島音頭の盆踊りも賑やかです。実際江州音頭と高島音頭の違は微妙で私には申
し訳ないですが分かりません。
しかし、数年前からちょっと休憩しています。経費も必要、準備スタッフの不足、盆踊りに
興味を示さなくなった・・若い人・・などで、櫓は眠っています。
私自身、盆踊りは大好きですが、この高島音頭の由来などは詳しくは分かりませんので、
高島音頭保存会の作られた冊子から抜粋させていただきます。
また、長文ですが・・ご了解下さいね。
高島音頭の由来
高島郡一円に伝承されている音頭で、起源は今より7百年程前より行われていたようだが、
高島郡は織田軍の兵火で神社仏閣及各主文化資料に至るまで焼失したので詳かにするこ
とは困難だそうです。
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高島市マキノ町海津地域で、毎年力士祭りが行われています。
忘れてしまいそうなもの、・・・このカテゴリーに残そうと思って・・。
マーノリさんブログにも・・・。
ちょっと、長文ですが・・・。
祭り唄 マキノ町海津
マキノ町の海津祭に、歌われています祭唄です。祭り以外でも、たまに歌われているようで、
私も親戚の新築の手伝いに行ったとき、夜の酒席で歌われていました。
(最近はマキノでの酒席の機会が無いので、どうかなア?カラオケかなア)
口から耳へと歌いつがれてきた唄のなかでも、リズム(節まわし)は単調ですが、うたい易
く私の大好きなふるさとの唄です。この祭唄の歌詞(文句)は、特別なものでもなく他の地区
にもある祝いうた等の文句と、似たものがあるようで即興で文句を作って歌われた事もあった
ようです。リズム、雰囲気はお伝え出来ませんし、マキノ地元ではないので正確な文句じゃな
いかも知れませんが、祭りの楽しみの一つの範囲で歌詞を書き込みます。雰囲気だけでも・・・。

【海津祭のうた】
・祭り祭りと待つのが祭り 待つのが祭り(繰り返し)
後のごえんはなにゃよかろ アネサンソウデハナイカイナアー
(みんなで、ハヤシ言葉)
・うたえ歌えや海津のまつり 海津のまつり
うたできりょうは下りゃせぬ アネサンソウデハナイカイアー
・酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 茶釜で沸かせ
御神酒あがらぬ神はない アネサンソウデハナイカイナアー
・私しゃ大崎あなたは高木(高木浜) あなたは高木
いつも青々(会を会を)松(待つ)ばかり アネサンソウデハナイカイナアー
・貴方と別れて大崎行けば 大崎行けば
松の露やら涙やら アネサンソウデハナイカイナア-
・あなた一人の良い声よりも 良い声よりも
まわしうたえや海津の祭 アネサンソウデハナイカイナアー
・ほんに良い声あなたの声は あなたの声は
清水(ショウズ)桜の蝉の声 アネサンソウデハナイカイナアー
・親の意見とナスビの花は ナスビの花は
千に一つの無駄はない アネサンソウデハナイカイナアー
・差した杯ゃ中見て飲めや 中見て飲めや
中は鶴亀五葉の松 アネサンソウデハナイカイナアー
・ここの座敷はめでたい座敷 めでたい座敷
鶴と亀とが舞い踊る アネサンソウデハナイカイナアー
・硬い硬いと安心ならぬ 安心ならぬ
岩に松さえ生えるのに アネサンソウデハナイカイナアー
・わしとお前はお倉の米よ お倉の米よ
いつか世に出てまま(飯・自由)になる アネサンソウデハナイカイナアー
・めでた目出たのこの杯は この杯は
鶴のひしゃくで亀がのむ アネサンソウデハナイカイナアー
・主の出船を見送る妻は 見送る妻は
一夜千両を楽しみに アネサンソウデハナイカイナアー
いよいよ酒の席も、盛り上がってくると、ついつい歌詞も色気づいてきます。*
続きを読む
忘れてしまいそうなもの、・・・このカテゴリーに残そうと思って・・。
マーノリさんブログにも・・・。
ちょっと、長文ですが・・・。
祭り唄 マキノ町海津
マキノ町の海津祭に、歌われています祭唄です。祭り以外でも、たまに歌われているようで、
私も親戚の新築の手伝いに行ったとき、夜の酒席で歌われていました。
(最近はマキノでの酒席の機会が無いので、どうかなア?カラオケかなア)
口から耳へと歌いつがれてきた唄のなかでも、リズム(節まわし)は単調ですが、うたい易
く私の大好きなふるさとの唄です。この祭唄の歌詞(文句)は、特別なものでもなく他の地区
にもある祝いうた等の文句と、似たものがあるようで即興で文句を作って歌われた事もあった
ようです。リズム、雰囲気はお伝え出来ませんし、マキノ地元ではないので正確な文句じゃな
いかも知れませんが、祭りの楽しみの一つの範囲で歌詞を書き込みます。雰囲気だけでも・・・。
【海津祭のうた】
・祭り祭りと待つのが祭り 待つのが祭り(繰り返し)
後のごえんはなにゃよかろ アネサンソウデハナイカイナアー
(みんなで、ハヤシ言葉)
・うたえ歌えや海津のまつり 海津のまつり
うたできりょうは下りゃせぬ アネサンソウデハナイカイアー
・酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 茶釜で沸かせ
御神酒あがらぬ神はない アネサンソウデハナイカイナアー
・私しゃ大崎あなたは高木(高木浜) あなたは高木
いつも青々(会を会を)松(待つ)ばかり アネサンソウデハナイカイナアー
・貴方と別れて大崎行けば 大崎行けば
松の露やら涙やら アネサンソウデハナイカイナア-
・あなた一人の良い声よりも 良い声よりも
まわしうたえや海津の祭 アネサンソウデハナイカイナアー
・ほんに良い声あなたの声は あなたの声は
清水(ショウズ)桜の蝉の声 アネサンソウデハナイカイナアー
・親の意見とナスビの花は ナスビの花は
千に一つの無駄はない アネサンソウデハナイカイナアー
・差した杯ゃ中見て飲めや 中見て飲めや
中は鶴亀五葉の松 アネサンソウデハナイカイナアー
・ここの座敷はめでたい座敷 めでたい座敷
鶴と亀とが舞い踊る アネサンソウデハナイカイナアー
・硬い硬いと安心ならぬ 安心ならぬ
岩に松さえ生えるのに アネサンソウデハナイカイナアー
・わしとお前はお倉の米よ お倉の米よ
いつか世に出てまま(飯・自由)になる アネサンソウデハナイカイナアー
・めでた目出たのこの杯は この杯は
鶴のひしゃくで亀がのむ アネサンソウデハナイカイナアー
・主の出船を見送る妻は 見送る妻は
一夜千両を楽しみに アネサンソウデハナイカイナアー
いよいよ酒の席も、盛り上がってくると、ついつい歌詞も色気づいてきます。*
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