淡海耕地整理・1(貯水池工事着手)
高島市のスキー場の一つである、箱館山スキー場が旧川上地区にあります。その頂上から山道を
登り下りして奥に入って行っていくと、山の中に小さな湖があります。
その湖を「淡海湖」(たんかいこ)と言っています。(通称「処女湖」)

大正2年からはじまった、生活維持のための苦労の事業がはじまりました。
明治のおわりの頃、箱館山の麓には現在の平ヶ崎(へがさき)、伊井(いい)、酒波(さなみ)、構
(かまえ)などの集落があり、この辺りの土地は、箱館山の麓の小高い所にあるため、水の便が非
常に悪く、林や原野で作物のできにくい畑が広がっているだけの土地でした。
当時の人々は、水不足のため米は殆ど作れず、副業として、桑やカヤを植えたり、山で炭を焼い
たりの生活をしていましたが、ヒエやアワ、ナメシ(麦飯の中へ大根の葉などを混ぜたもの)などを
食べ、貧しい生活をしていました。
人々は「せめてほかの百姓のように米の飯を腹いっぱい食べたい。」「百姓はやはり米を作らな
くては・・・・どこからか水を引いて米を作りたい」などと、常々思っていたので、仕事が終わってか
らも、いろいろと話し合いが行われ、時には疲れた体にも関わらず明け方まで話し込んだ事もあっ
たようです。
寄り合いの話の中から、どんな方法でこの荒れ地に水を引いたら良いのか、いろいろ考え調査し
た結果、赤坂山の川原谷(かわらだに)に貯水池をつくり、そこから水を引くのが最も良い方法であ
ると結論されました。
しかし、この谷は470メートルの高さにある山深い所で、そこに貯水池をつくり、水を引くためには長
いトンネルを掘らなければなりません。人々は何度も「寄り合い」を開き、相談をしてきたのですが、
計画の途中でやめになったりして、なかなか進展しませんでした。

------------------高島郡誌 第九章産業 第一節農業より-----------------
川上村淡海耕地整理の工事は本郡に於ける第一事業なりとす。其工事状況を
擧ぐれば、同村大字日置前、大字酒波、大字福岡の内構の廣漠たる畑地は殆
不耗に近きものなるを以て、有志の間に於いて相當の利益を擧げんとするには
水田となすにありしと、調査の結果水源を石田川上流赤坂河(川?)原谷に求む
るを適當なりとせるも、是を引くには延長の大なる隧道を掘鑿するに非れば引水
の方法なきを以て、一時中止のま丶なりしを、同村松本彦平其外有志等共に奔
走して漸く村民の同意を得、大正元年九月測量に着手し、年内に設計成り、組合
設立許可を受け、二年七月第一着手工事として引水隧道を兩口より起工したり。
---------------------------------------------------------------

1913年(大正二年)、赤坂山の谷水(石田川の上流)をせき止め、貯水池をつくるための工事に
とりかかったのであります。簡単に貯水池を作るといっても、当時の近辺の貯水池は、いずれも水
漏れの為に使いものにならないものばかりで、人々は「本当に水をためる貯水池が出来るのか」た
いへん不安を感じていました。
そのため、貯水池工事では、いろんな工夫がなされました。水をとめるダムを作るのに山の岩盤を
くり貫き、近くの山から運んできた粘土をたたいて作った、刃金土(はがねづち)を打ち込んだので
す。(この工事の仕方を「かすがいぼり」という。)そして、その周りを約150メートルもの盛り土で支
えるなど、大変な労力と時間のかかる特別な工事でした。
また、この大工事は地域の人々だけでは間に合わず、遠くは伊香、東浅井、大津の方から人夫が
雇われました。多いときには400人にもなり、山奥の谷に小屋を建てて住み、一つの集落が出来る
ほどだったそうである。
冬の間は雪のため工事が出来ず、また、曲がりくねった山道を、食料、生活品工事に使う材料など
を運ぶ仕事も大変で、人々は工事中でも、何度も「本間にできるのだろうか」と、不安な日々が続い
たようでもある。
つづく・・・
高島市のスキー場の一つである、箱館山スキー場が旧川上地区にあります。その頂上から山道を
登り下りして奥に入って行っていくと、山の中に小さな湖があります。
その湖を「淡海湖」(たんかいこ)と言っています。(通称「処女湖」)
大正2年からはじまった、生活維持のための苦労の事業がはじまりました。
明治のおわりの頃、箱館山の麓には現在の平ヶ崎(へがさき)、伊井(いい)、酒波(さなみ)、構
(かまえ)などの集落があり、この辺りの土地は、箱館山の麓の小高い所にあるため、水の便が非
常に悪く、林や原野で作物のできにくい畑が広がっているだけの土地でした。
当時の人々は、水不足のため米は殆ど作れず、副業として、桑やカヤを植えたり、山で炭を焼い
たりの生活をしていましたが、ヒエやアワ、ナメシ(麦飯の中へ大根の葉などを混ぜたもの)などを
食べ、貧しい生活をしていました。
人々は「せめてほかの百姓のように米の飯を腹いっぱい食べたい。」「百姓はやはり米を作らな
くては・・・・どこからか水を引いて米を作りたい」などと、常々思っていたので、仕事が終わってか
らも、いろいろと話し合いが行われ、時には疲れた体にも関わらず明け方まで話し込んだ事もあっ
たようです。
寄り合いの話の中から、どんな方法でこの荒れ地に水を引いたら良いのか、いろいろ考え調査し
た結果、赤坂山の川原谷(かわらだに)に貯水池をつくり、そこから水を引くのが最も良い方法であ
ると結論されました。
しかし、この谷は470メートルの高さにある山深い所で、そこに貯水池をつくり、水を引くためには長
いトンネルを掘らなければなりません。人々は何度も「寄り合い」を開き、相談をしてきたのですが、
計画の途中でやめになったりして、なかなか進展しませんでした。
------------------高島郡誌 第九章産業 第一節農業より-----------------
川上村淡海耕地整理の工事は本郡に於ける第一事業なりとす。其工事状況を
擧ぐれば、同村大字日置前、大字酒波、大字福岡の内構の廣漠たる畑地は殆
不耗に近きものなるを以て、有志の間に於いて相當の利益を擧げんとするには
水田となすにありしと、調査の結果水源を石田川上流赤坂河(川?)原谷に求む
るを適當なりとせるも、是を引くには延長の大なる隧道を掘鑿するに非れば引水
の方法なきを以て、一時中止のま丶なりしを、同村松本彦平其外有志等共に奔
走して漸く村民の同意を得、大正元年九月測量に着手し、年内に設計成り、組合
設立許可を受け、二年七月第一着手工事として引水隧道を兩口より起工したり。
---------------------------------------------------------------
1913年(大正二年)、赤坂山の谷水(石田川の上流)をせき止め、貯水池をつくるための工事に
とりかかったのであります。簡単に貯水池を作るといっても、当時の近辺の貯水池は、いずれも水
漏れの為に使いものにならないものばかりで、人々は「本当に水をためる貯水池が出来るのか」た
いへん不安を感じていました。
そのため、貯水池工事では、いろんな工夫がなされました。水をとめるダムを作るのに山の岩盤を
くり貫き、近くの山から運んできた粘土をたたいて作った、刃金土(はがねづち)を打ち込んだので
す。(この工事の仕方を「かすがいぼり」という。)そして、その周りを約150メートルもの盛り土で支
えるなど、大変な労力と時間のかかる特別な工事でした。
また、この大工事は地域の人々だけでは間に合わず、遠くは伊香、東浅井、大津の方から人夫が
雇われました。多いときには400人にもなり、山奥の谷に小屋を建てて住み、一つの集落が出来る
ほどだったそうである。
冬の間は雪のため工事が出来ず、また、曲がりくねった山道を、食料、生活品工事に使う材料など
を運ぶ仕事も大変で、人々は工事中でも、何度も「本間にできるのだろうか」と、不安な日々が続い
たようでもある。
つづく・・・
この記事へのトラックバックURL
http://takasima.shiga-saku.net/t81062
この記事へのコメント
高島さん、おはようございます^^
先人のご苦労が偲ばれるお話で
読み込んでしまいました。
寒い寒いと言っているのは
ほんとにぜいたくな悩みですよね(^^)
先人のご苦労が偲ばれるお話で
読み込んでしまいました。
寒い寒いと言っているのは
ほんとにぜいたくな悩みですよね(^^)
Posted by romi at 2008年02月12日 07:19
>romiさんへ
その時は、厳粛な気持ちになるのですが
なかなか、日常では・・・ついつい愚痴やため息もでますね。
その時は、厳粛な気持ちになるのですが
なかなか、日常では・・・ついつい愚痴やため息もでますね。
Posted by 高島 at 2008年02月12日 08:17

