今でもそうですが、当時も遠くからの目印になっていた樹木で、夏の風に葉っ
ぱの表と裏を互いになびかせながら揺れていました。そのポプラの動きという
か真っ直ぐさを、小さな目線で下から見上げて毎日通っていたのです。
小さなランドセルを背負って、真新しいゴム靴を履いて毎日通った小学校です。
当時の通学路は、舗装がされていなくて、デコボコでした。水たまりに滅多に通ら
ないトラックが泥水を掛けて行くこともありました。
確か5年生の夏休み前から、田んぼの真ん中に不思議な施設が建設されてい
ました。結局、夏休み後に出来上がっていましたが、それがガソリンスタンドだと
わかるのに数日かかりました。
給油には、電動じゃなく大きなハンドルをクルクル回し給油する仕組みでした。
車に給油している作業を、不思議そうに帰り道ジーーット見ていたこともたびたび。
児童数も多かったせいもあるでしょうが、学校独自で給食調理の一室もあり、
「給食のおばちゃん」がいつも親しく話しかけてくれたのが記憶に残り、同時に
脱粉乳のミルクが如何しても飲めなくてその結果、乳製品が現在までずーーっ
と苦手になったのかなと、一人思っています。
職員室の横に、大きな小鳥の部屋があり、インコなどが飼育されていて、高学
年には日課で掃除と餌を与えることでした。
そのほか、鶏、ウサギが数羽飼育されていて、夏休みの餌やりも当番で回って
きていたように思います。
冬期は、各教室に石炭ストーブが設置され、真っ黒な石炭がバケツに盛られ、
教室の隅っこに置かれていました。これもまた、放課後に高学年が当番で、各
部屋にバケツに入れた石炭を配置していました。
燃やすだけではありません、その後に残る残灰も当番で処分していました。運
動場の隅っこに山になった真っ黒の石炭でしたが、雪が降ると真っ白になり、
そこから取り出す作業も、高学年といえども子どもなりの重労働だったように思
います。
私は、ほとんど生誕の地を長く離れたことがないので、ふるさとを思い懐かしむ
感覚が薄いかもしれませんが、時々、このポプラを遠くから眺めると、毎日身近
に見ていても、この秋の季節を迎えるごとに当時の時間が懐かしくあふれてきま
す。