見にくいですが・・風車村の風車羽・・
高島市北部、積りはしませんが雪が舞う一日でした、それも時々強い風もあって田んぼの雪も
舞い上がったりで・・風雪の風景も時々でした。気温も0度をキープの寒さで・・。
黄色いロウバイの一粒一粒に雪が・・画像では伝えられませんが・・綺麗でした。
夕方から冷たい冷たい北風が吹き荒れ地表を冷やし、夜間には風が止まって深夜には戸袋が
コトコトと音を立てて・・それを聞きながら寝入っていました。翌朝の玄関先は膝上に積もった雪
を見ながら、冬の一日が始まる・・・そんな冬の様子はもう過去の記憶になっています。
根雪があって・・春まで雪と一緒の生活・・真冬の幼いころは、祖父や父が藁仕事、幼い私は
その中で、吊るし柿を食べたり、餅を焼いてもらったりの毎日、草履を作ったり、荒縄作り・・・
米俵、炭俵・・・名前は忘れましたが・・養蚕に必要な藁道具も・・もっと他にも藁製品を作って
いたように思いますが、はっきり思い出せません。
どこの家も、茅葺屋根から落ちた雪が固い山になって玄関を見えなくしたり、車の少ない時代では
集落内は人の歩ける細い雪道しか見当たりませんでした。各家が車時代になると、事前に国道近く
の広場まで車を移動させておいたり、そうでないときは、近所みんなで一台の車を国道まで・・
次はその車の轍にそっての運転でした。
早朝の車は凍り付いて・・鍵穴に鍵が刺さらなかったり、ドアのゴムが車体に凍り付き開閉できな
かったり、そんな事を毎日していると・・手足の指先に「しもやけ」のひと時でした、その症状も
人それぞれで・・靴下の薄さ、ゴム長靴のペラペラも原因だったのか、食生活の貧困だったかと、
今から思えば、いろいろ思いますが。
小学校へ通いだすと・・当時は冬の定番の黒いマントを誰もが羽織っていました。我が家からは
小学校は南方向・・朝の登校時は体の右側半分が真っ白になって・・下校時は逆で北風に向かって
の歩行・・家にたどり着くと左側が真っ白になって・・それも薄い煎餅が大きく張り付いたような
マントになっていました・・・冬季はこれが毎日でした。
でも、楽しき事も多く・・快晴の冬日、凍てついた雪の上をジョリジョリと歩く楽しみも・・いつ
もなら曲がりくねった道を登校でしたが、そんな日は田んぼの上を学校へ一直線・・時間短縮です。
ときどき先生からは「危ないから、やめなさい!!」と高学年の児童は叱られていましたが、そん
な面白いことは止められるはずもなかったですが・・。
以下は、激しく降雪だった高島市内の一部です。
高島病院近く・・ここも時々・・吹雪きました。
新旭・・湖周道路・・数日前とはえらく違った風景でした。
今津町内は・・こんな感じでした。