画像は・・五月の田園風景・・箱館山林道からです。
10月1日に、土地改良区設立100年周年を迎えます。
淡海土地改良区弁財天祈願祭も同じく行われます・・・。
祈願祭は、その石碑が建立されている今津町旧川上地区で4月18日に例年行われる
「さんやれ祭」の行われる馬場で行われます。
長い歴史のなかでの・・小さな時間でしょうが、人の力は偉大です。
以前に残した文面ですが・・ちょっとご紹介です。
以下文面は・・・1990年にメモ書きで残した文面ですが、長文ですので
ご了解ください。
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湖西のスキー場の一つである、箱館山スキー場が旧川上地区にあります。その
頂上から山道を登り下りして奥に入って行っていくと、山の中に小さな湖があり
ます。
その湖を「淡海湖」(たんかいこ)と言っています。(通称「処女湖」)
明治のおわりの頃、箱館山の麓には現在の平ヶ崎(へがさき)、伊井(いい)
、酒波(さなみ)、構(かまえ)などの集落があり、この辺りの土地は、箱館山
の麓の小高い所にあるため、水の便が非常に悪く、林や原野で作物のできにくい
畑が広がっているだけの土地でした。
当時の人々は、水不足のため米は殆ど作れず、副業として、桑やカヤを植えた
り、山で炭を焼いたりの生活をしていましたが、ヒエやアワ、ナメシ(麦飯の中
へ大根の葉などを混ぜたもの)などを食べ、貧しい生活をしていました。
人々は「せめてほかの百姓のように米の飯を腹いっぱい食べたい。」「百姓は
やはり米を作らなくては・・・・どこからか水を引いて米を作りたい」などと、
常々思っていたので、仕事が終わってからも、いろいろと話し合いが行われ、時
には疲れた体にも関わらず明け方まで話し込んだ事もあったようです。
寄り合いの話の中から、どんな方法でこの荒れ地に水を引いたら良いのか、
いろいろ考え調査した結果、赤坂山の川原谷(かわらだに)に貯水池をつくり、
そこから水を引くのが最も良い方法であると結論されました。
しかし、この谷は470メートルの高さにある山深い所で、そこに貯水池をつ
くり、水を引くためには長いトンネルを掘らなければなりません。人々は何度も
「寄り合い」を開き、相談をしてきたのですが、計画の途中でやめになったりし
て、なかなか進展しませんでした。
------------------高島郡誌 第九章産業 第一節農業より------------------
川上村淡海耕地整理の工事は本郡に於ける第一事業なりとす。其工事状況を擧ぐ
れば、同村大字日置前、大字酒波、大字福岡の内構の廣漠たる畑地は殆不耗に近
きものなるを以て、有志の間に於いて相當の利益を擧げんとするには水田となす
にありしと、調査の結果水源を石田川上流赤坂河(川?)原谷に求むるを適當な
りとせるも、是を引くには延長の大なる隧道を掘鑿するに非れば引水の方法なき
を以て、一時中止のま丶なりしを、同村松本彦平其外有志等共に奔走して漸く村
民の同意を得、大正元年九月測量に着手し、年内に設計成り、組合設立許可を受
け、二年七月第一着手工事として引水隧道を兩口より起工したり。
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1913年(大正二年)、赤坂山の谷水(石田川の上流)をせき止め、貯水池
をつくるための工事にとりかかったのであります。簡単に貯水池を作るといって
も、当時の近辺の貯水池は、いずれも水漏れの為に使いものにならないものばか
りで、人々は「本当に水をためる貯水池が出来るのか」たいへん不安を感じてい
ました。
そのため、貯水池工事では、いろんな工夫がなされました。水をとめるダムを
作るのに山の岩盤をくり貫き、近くの山から運んできた粘土をたたいて作った、
刃金土(はがねづち)を打ち込んだのです。(この工事の仕方を「かすがいぼり」
という。)そして、その周りを約150メートルもの盛り土で支えるなど、大変
な労力と時間のかかる特別な工事でした。
また、この大工事は地域の人々だけでは間に合わず、遠くは伊香、東浅井、大
津の方から人夫が雇われました。多いときには400人にもなり、山奥の谷に小
屋を建てて住み、一つの集落が出来るほどだったそうである。
冬の間は雪のため工事が出来ず、また、曲がりくねった山道を、食料、生活品
工事に使う材料などを運ぶ仕事も大変で、人々は工事中でも、何度も「本間にで
きるのだろうか」と、不安な日々が続いたようでもある。
淡海湖耕地整理・2(組合設立・トンネル工事)
高島郡誌にも登場される、松本彦平さんが「淡海湖耕地整理組合」の初代組合
長に推薦されたのです。1912年(大正元年)九月に、ようやく測量にかかり
、翌年の六月にこの組合がおこされ、翌年七月にトンネル工事から始まる事にな
ったのです。
-------------------------------高島郡誌より-----------------------------
工事は晝夜其進行を圖りしも、一日行程五寸及至五尺許にして進行に伴ひ、
多量の水分を含める軟弱なる岩質に遭遇し、一時に坑内に多量の土砂流出して、
工事の進行を不可能ならしめしが、土砂の排除に努めて二十餘日の後に復奮し、
(大正)四年十二月貫通せり。
又八十尺餘の堰堤工事に於ては第一築堤の安全を保たんため排水隧道を鑿し夫
より堤の本掘に着手し、岩層を除去すること二十八尺にして初めて完全の層を得
、以後漏水の關係上晝夜兼行にて地盤までの羽金を築造すると共に、刃金雑土と
築堤工事の進行を圖りしも、其他は山深くして村内よりは程遠きを以て人夫は、
此に小屋掛にて之に従事し、且又積雪の為交通断するが故に農閑の五ケ月間は、
工事中止の止むなき等にて其工事は困難を極め費用は増加したりしが、十二年九
月堰堤の完了を得たり。
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難工事のためと、物価上昇もあり多額の費用が必要で、反対者たちからは、い
ろいろな反発もあり、その上、工事の失敗も何度か繰り返され、幾度も工事の中
止を迫られる事もあり、中止決定寸前の事態もあったようですが、どうしても水
を!と願う人々に相談し協力を得て「なんとしても、やり遂げよう」と呼びかけ
、そのあとに、組合設立がなされたのです。
決めた事は最後まで・・・の意気込みで、組合長たちは山を駆けずり回わって
指図したり、金策のため銀行に幾たびも出向いたり、人夫の手配など、やり遂げ
ようの一心で、難問を切り抜けて来たのです。
●トンネル(ずい道)工事●
1913年(大正二年)、貯水池工事と同時に、谷奥の貯水池から引水するた
めのトンネル工事が行われます。
この辺りの地質は柔らかく、掘っても掘ってもトンネルが土砂で埋まってしま
い、普通でも一日1.5メートルぐらい、岩盤にあたるとわずか15センチしか
進まない難工事で、その上、トンネルの中は長く狭いため空気が悪くなり、人夫
倒れたりもしたのです。
それを、防ぐため「とうみ」(イネとモミガラに分けるのに使った機械。上手
く表現できないけど、大きな木箱の中に板の羽が数枚、一本の軸についているも
ので、その軸を手で回し、風を作る。その風の前にイネを落とすと、重いイネは、
直下し、軽いモミガラは遠くへ飛ばされ、イネとモミガラを分離させるのである)
(上手く表現出来まへん)
元に戻って、その「とうみ」を水車で回し、新しい空気をトンネル内に入れる
工夫もなされたようです。
1914年(大正三年)三月、東から突然崩れだし、大きな音と共に泥水が流
れだし、せっかく掘ったトンネルが四カ所も崩れ、一時は諦めかけたがまわり道
をしながらの、掘削作業が続きます。1915年(大正四年)十二月、トンネル
の真ん中で、技師の設計と30センチも違わないトンネルが貫通したとき、「出
来るわけがない」と豪語していた人々や、不安に思っていた人たちを大変驚かせ
たという事です。
この十年後、貯水池が出来てから谷水がこのトンネルを初めて通るまで、支え
の木材が腐って崩れた後を復旧したり、崩れやすいところをコンクリート工事で
強化したりの工事が続きます。
淡海湖耕地整理・3(貯水池完成)
前回(2)に書いた通り、貯水池の工事は、遠方から沢山の人夫を手配しなが
らの工事で、人々の「ほんまに出来るんだろうか」の心配と不安、焦りの日々が
続くのですが、人々の団結頑張りで工事着手の1913年(大正二年)から、約
10年後の、1923年(大正十二年)九月にダム工事が終わり、トンネルへ水
を出す装置も取付完了に至ったのです。
1924年(大正十三年)の冬間近の日、いよいよ貯水池に水をためる時が来
たのです。最後にダムの穴を塞ぎ、秋から春にかけての雪解け水が入り込むのを、
人々は一冬不安と期待の気持ちで待ちわびるのです。
翌年の春、深い雪が解けるのを待ちきれず、貯水池を見に行った人から「水が
満々とたまっている!!」との知らせを聞いた時、村中の人々は涙を流しながら
喜び、地域全体が喜びでわきかえったという事です。
1925年(大正十四年)の春、この地域に初めて水が来たのです。トンネル
から、いきおいよく飛び出してくる水を見て、人々は不安と苦しさを乗り越えた
思い出や、やり遂げた感激で、ただただその場に立ち尽くすのみだったそうであ
る。
その時に、取材にきていた新聞記者は、「これは農民の血と汗と涙の歴史だ」
そして、この美しく、若々しい湖をたとえて「これこそ、淡海の処女湖だ!!」
と新聞の記事にして以来、この貯水池を土地の人々は「処女湖」と呼んでいます
淡海湖耕地整理・4(新田づくり)
「今に、水でこねた土で、畦をぬらしてやる」
新しく田をつくる工事は、1925年(大正14年)、貯水池の水がトンネルを
通った時から本格的に開拓されていきました。
「今に、水でこねた土で・・・」という言葉が、水を山から引き、水田を作る
ことに自信と希望をもった人々の合い言葉であったが、開墾しても土地が痩せて
すすのように黒い土で、しかも底は赤土の力のない土で、稲を植えても思ったよ
うな米が実らない。ひどい時は、その時頻繁に使われていた化学肥料(硫安など)
を、やっても根をダメにして、「白穂」(しらほ)になるばかりであった。
そこで、その当時沢山あったマメカスや魚のニシン、山から刈ってきた「ほと
ろ」(若い木の芽や草しばを干したもの)を、土の中へ埋め込など、いろいろと
良い土を作ろうと、努力されていたのである。
昭和三年頃には、ようやく米が採れるようになり、昭和六年には、この淡海湖
から水を引く田は920反(92ヘクタール)にもなり、そのうちの720反は
この工事により新しくできた田で、土を変えていく努力で美味しい米も出来るよ
うになってきたのである。
また、淡海湖の水は、谷川の水がよどんでいる間に科学変化をおこし、肥料分
を含み、それが田畑に流れ込み、美味しい米が出来ると言われているそうである。
この仕事を記念した碑がある。この石碑は1946年(昭和21年)に建立さ
れ、貯水池やトンネル工事、開墾をやり遂げた人たちの苦労と努力の印しであり
今でも、年に1回は、トンネルを点検し、ダムの刃金土に草木の根が入らないよ
うに除草作業をしたり、淡海湖の真ん中にたたずんでいる弁天様にお参りしたり
で、地域の人々は、先輩の仕事をいつまでも讃え、ダム、トンネルの無事を祈り
土地草木を大切にしています。
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痩せて力のない土地に水を引き、水田を作るために奥深い赤坂山に「貯水池」を
作り、貯水池から水を引くために「トンネル」を堀り、原野を開墾する三つの、
工事を終えるのに、おおよそ20年の歳月が流れた今日、山に登り琵琶湖方面を
眺めると、広い田園がきちんと並ぶ早場米の産地となったこの地域が見られ、先
輩の努力によって作られた土地に実った稲の穂が、毎年秋の収穫期に見ることが
できる。
淡海湖耕地整理・5(石碑)
日置神社に、これらの仕事を記念した碑が建てられている。
この石碑は1946年(昭和21年)に建てられ、貯水池やトンネル工事、
開墾にされた人達の苦労と努力の一つのしるしとして、建立されたものである。
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------------------- 『石 碑 文』-------------------------------------
本村中部酒波伊井平崎構ノ四部落ニ亘リテ其中央部ヲ占ムル通称岡と呼ベル一團
地アリ高乾燥瘠薄ニシテ水利ノ便ヲ缺キ天輿ノ廣土曠シク荒癈ニ帰セントス邑人
之ヲ慨スル久シ大正三年二月有志提携蹶起之ガ対策ヲ講ジ耕地整理組合ヲ組織シ
テ米麥ノ増産ヲ期シタリ固ヨリ組合部落ノ興亡ヲ賭ケタル大事業ニシテ前途幾多
ノ難関ヲ豫想セラレシガ就中一大堰堤ニ縁ル貯水池ノ築設引水隧道ノ掘鑿資金ノ
調達並人心ノ把握ノ如キハ難中ノ難件タリキ当局幹部ノ苦心慘憺寔ニ筆舌ニ絶ス
ルモノアリ組合長初代松本彦平氏次代彦五郎氏父子ノ如キ為ニ二豎ノ侵ス處トナ
リテ終ニ事業ニ殉ゼラル崇高悲惨並想フベシ三代松本亀吉氏衆望ヲ負テ敢テ其後
ヲ受ケ幹部諸員ノ献身的協力支援ヲ得續出セル難件ヲ斐理按排シテ其ノ方ヲ愆ラ
ズ邑人ノ監勵之勗メ共同一致戮力邁進ノ途偶助成法改正ニ伴フ政府方面ノ深厚ナ
ル補助金激励勵邑人ノ士気昴揚ト相俟テ終ニ昭和十二年八月サシモノ大業完遂ノ
驩ヲ収ムルニ至ル此間年ヲ閲スル二十有三年資ヲ投ズル六十七萬餘圓隧道ノ掘鑿
約十一町餘貯水池ノ面積十二町一反餘畝歩開田七十餘町歩昨ノ荒癈醜蔗ノ瘠土今
ヤ井然タル美田ト化シテ其風景觀ヲ一新スルト共ニ所謂甌窶満篝汗邪満車穰々稔
秦ノ果ヲ結ブル見ル茲ニ記念ニ碑石ヲ建立シ聊其ノ概要ヲ刻シ後昆ヲシテ先人苦
闘ノ蹟ヲ偲ビ感奮興起スル所アラシメン事ヲ切ニ庶幾スル所以ナリ伝爾
三田村甚吉撰 比叡谷正顕書
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--------------------『平 易 文』--------------------------------------
川上村の中部、酒波・伊井・平崎・構の四部落にわたって、その真ん中を占めて
いる「岡」と呼ばれている一つのまとまった土地がありました。かわききったや
せた土地で、水をひきにくく天が与えた広い土地がむなしくあれはてるのを、村
人は長い間なげいていました。大正三年二月に、仲間が手を結び立ちあがり荒れ
はてた土地をなんとかしようと、耕地整理組合を作って米麦をもっと作ろうとし
ました。
いうまでもなく、組合や部落をほろぼすかほろぼさないかという大事業で、行く
先にはたくさんのむずかしい事が予想されました。なかでも、大きな堰堤に囲ま
れた貯水池をつくること、水を引くトンネルを掘ること、資金をあつめること、
そして、人の心をまとめることは、最も難しく組合の幹部の苦労は言葉に表せな
いほどでした。
組合長初代松本彦平氏・次代松本彦五郎氏親子は、このため、病気になりついに
事業に一身をささげました。けだかさとひさんさをともにおもうことができます
三代松本亀吉氏は、民衆の希望をせおってあえてそのあとをうけて、幹部みんな
の身をすてての協力や助けをえて、次々と出てくる難しい問題を上手にかたずけ
、その道をまちがえませんでした。村人のはげましはつとめの共同一致となって
力をあわせひるまず進んでいるとちゅう、たまたま、助成法の改正にともなって
政府の深く厚い補助とはげましがあり、村人の士気も大きくたかまりました。
そしてついに、昭和十二年八月、あれほどの大事業も完成し、皆よろこびました
この間、二十三年あまりの年月と、六十七万円あまりの資金と、十一町あまり掘
ったトンネルと、面積十一町一反あまりの貯水池と、開田した田畑は七十町あま
り。きのうまでのあれはてたみにくいくさはらのやせた土地は、きちんとととの
った美しい田となり、そのけしきをまったく新しいものとし、いわゆる非常に、
豊作であせをあまりかかなくても穀物がみのり車にいっぱいになる土地となりま
ました。みのりが大きく結ぶのを見て、記念に石碑を建てて、ちょっとそのおお
まかな内容をしるすことによって、今後、先人の苦しいたたかいのあとをおもい
だしふるいたちたちあがろうとする気持ちがおこることを、本当にねがい、わけ
をここにしるします。
三田村甚吉撰 比叡谷正顕書
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この、石碑は旧川上地区で4月18日に例年行われます「さんやれ祭」の
行われる馬場に、建立されています。