淡海湖耕地整理・2
淡海湖耕地整理・2(組合設立・トンネル工事)
高島郡誌にも登場される、松本彦平さんが「淡海湖耕地整理組合」の初代組合長に推薦さ
れたのです。
1912年(大正元年)九月に、ようやく測量にかかり、翌年の六月にこの組合がおこされ、翌
年七月にトンネル工事から始まる事になったのです。
<本文と画像は、関係ありません>
-------------------------------高島郡誌より-----------------------------
工事は晝夜其進行を圖りしも、一日行程五寸及至五尺許にして進行に伴ひ、多量の水分を含
める軟弱なる岩質に遭遇し、一時に坑内に多量の土砂流出して、工事の進行を不可能ならしめ
しが、土砂の排除に努めて二十餘日の後に復奮し、(大正)四年十二月貫通せり。
又八十尺餘の堰堤工事に於ては第一築堤の安全を保たんため排水隧道を鑿し夫より堤の本
掘に着手し、岩層を除去すること二十八尺にして初めて完全の層を得、以後漏水の關係上晝
夜兼行にて地盤までの羽金を築造すると共に、刃金雑土と築堤工事の進行を圖りしも、其他は
山深くして村内よりは程遠きを以て人夫は、此に小屋掛にて之に従事し、且又積雪の為交通断
するが故に農閑の五ケ月間は、工事中止の止むなき等にて其工事は困難を極め費用は増加し
たりしが、十二年九月堰堤の完了を得たり。
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難工事のためと、物価上昇もあり多額の費用が必要で、反対者たちからは、いろいろな反発も
あり、その上、工事の失敗も何度か繰り返され、幾度も工事の中止を迫られる事もあり、中止決
定寸前の事態もあったようですが、どうしても水を!と願う人々に相談し協力を得て「なんとしても、
やり遂げよう」と呼びかけ、そのあとに、組合設立がなされたのです。
決めた事は最後まで・・・の意気込みで、組合長たちは山を駆けずり回わって指図したり、金策の
ため銀行に幾たびも出向いたり、人夫の手配など、やり遂げようの一心で、難問を切り抜けて来
たのです。
●トンネル(ずい道)工事●
1913年(大正二年)、貯水池工事と同時に、谷奥の貯水池から引水するためのトンネル工事が
行われます。
この辺りの地質は柔らかく、掘っても掘ってもトンネルが土砂で埋まってしまい、普通でも一日1.5
メートルぐらい、岩盤にあたるとわずか15センチしか進まない難工事で、その上、トンネルの中は長
く狭いため空気が悪くなり、人夫倒れたりもしたのです。
それを、防ぐため「とうみ」(イネとモミガラに分けるのに使った機械。上手く表現できないけど、大き
な木箱の中に板の羽が数枚、一本の軸についているもので、その軸を手で回し、風を作る。その風
の前にイネを落とすと、重いイネは、直下し、軽いモミガラは遠くへ飛ばされ、イネとモミガラを分離
させるのである)
(上手く表現出来まへん)
元に戻って、その「とうみ」を水車で回し、新しい空気をトンネル内に入れる工夫もなされたようです。
1914年(大正三年)三月、東から突然崩れだし、大きな音と共に泥水が流れだし、せっかく掘った
トンネルが四カ所も崩れ、一時は諦めかけたがまわり道をしながらの、掘削作業が続きます。191
5年(大正四年)十二月、トンネルの真ん中で、技師の設計と30センチも違わないトンネルが貫通
したとき、「出来るわけがない」と豪語していた人々や、不安に思っていた人たちを大変驚かせたと
いう事です。
この十年後、貯水池が出来てから谷水がこのトンネルを初めて通るまで、支えの木材が腐って崩れ
た後を復旧したり、崩れやすいところをコンクリート工事で強化したりの工事が続きます。
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