淡海湖耕地整理・3・4

高島です

2008年02月15日 11:25

淡海湖耕地整理・3(貯水池完成)
 前回(2)に書いた通り、貯水池の工事は、遠方から沢山の人夫を手配しながらの工事で、
人々の「ほんまに出来るんだろうか」の心配と不安、焦りの日々が続くのですが、人々の団結
頑張りで工事着手の1913年(大正二年)から、約10年後の、1923年(大正十二年)九月
にダム工事が終わり、トンネルへ水を出す装置も取付完了に至ったのです。

<本文内容と画像は関係ありません>
1924年(大正十三年)の冬間近の日、いよいよ貯水池に水をためる時が来たのです。最後
にダムの穴を塞ぎ、秋から春にかけての雪解け水が入り込むのを、人々は一冬不安と期待の
気持ちで待ちわびるのです。

翌年の春、深い雪が解けるのを待ちきれず、貯水池を見に行った人から「水が満々とたまっ
ている!!」との知らせを聞いた時、村中の人々は涙を流しながら喜び、地域全体が喜びで
わきかえったという事です。

1925年(大正十四年)の春、この地域に初めて水が来たのです。トンネルから、いきおいよ
く飛び出してくる水を見て、人々は不安と苦しさを乗り越えた思い出や、やり遂げた感激で、た
だただその場に立ち尽くすのみだったそうである。

その時に、取材にきていた新聞記者は、「これは農民の血と汗と涙の歴史だ」そして、この美
しく、若々しい湖をたとえて「これこそ、淡海の処女湖だ!!」と新聞の記事にして以来、この
貯水池を土地の人々は「処女湖」と呼んでいます。
淡海湖耕地整理・4(新田づくり)
「今に、水でこねた土で、畦をぬらしてやる」
新しく田をつくる工事は、1925年(大正14年)、貯水池の水がトンネルを通った時から本格
的に開拓されていきました。

「今に、水でこねた土で・・・」という言葉が、水を山から引き、水田を作ることに自信と希望を
もった人々の合い言葉であったが、開墾しても土地が痩せてすすのように黒い土で、しかも
底は赤土の力のない土で、稲を植えても思ったような米が実らない。ひどい時は、その時頻
繁に使われていた化学肥料(硫安など)を、やっても根をダメにして、「白穂」(しらほ)になる
ばかりであった。

そこで、その当時沢山あったマメカスや魚のニシン、山から刈ってきた「ほとろ」(若い木の芽
や草しばを干したもの)を、土の中へ埋め込など、いろいろと良い土を作ろうと、努力されてい
たのである。

昭和三年頃には、ようやく米が採れるようになり、昭和六年には、この淡海湖から水を引く田
は920反(92ヘクタール)にもなり、そのうちの720反はこの工事により新しくできた田で、土
を変えていく努力で美味しい米も出来るようになってきたのである。

また、淡海湖の水は、谷川の水がよどんでいる間に科学変化をおこし、肥料分を含み、それ
が田畑に流れ込み、美味しい米が出来ると言われているそうである。

この仕事を記念した碑がある。この石碑は1946年(昭和21年)に建立され、貯水池やトン
ネル工事、開墾をやり遂げた人たちの苦労と努力の印しであり今でも、年に1回は、トンネル
を点検し、ダムの刃金土に草木の根が入らないように除草作業をしたり、淡海湖の真ん中に
たたずんでいる弁天様にお参りしたりで、地域の人々は、先輩の仕事をいつまでも讃え、ダム
、トンネルの無事を祈り土地草木を大切にしています。

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痩せて力のない土地に水を引き、水田を作るために奥深い赤坂山に「貯水池」を作り、貯水
池から水を引くために「トンネル」を堀り、原野を開墾する三つの、工事を終えるのに、おおよ
そ20年の歳月が流れた今日、山に登り琵琶湖方面を眺めると、広い田園がきちんと並ぶ早
場米の産地となったこの地域が見られ、先輩の努力によって作られた土地に実った稲の穂
が、毎年秋の収穫期に見ることができる。                        
 


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