雪深の山里・・椋川集落
2009年01月22日
高島市北部(北部といつも書いていますが、ほぼ琵琶湖岸に近い場所です)のお昼も、昨日と
同様に微妙な薄日に包まれたお昼でした。
午前中、通りがかった高島市朽木へ向かう途中に、以前にもブログにした「今津町椋川」集落が
雪を多く残しての姿があり、数分でしたが立ち寄ってきました。




平成19年10月現在の数字ですが、今津町椋川(むくがわ)地区の世帯数34世帯で64名の住人。
来年度に「都市農村交流施設」として利用される高島市内最大といわれる「かやぶき民家」も
あるところです。今回は時間もなく・・画像で紹介できません。
ちなみに、その利用されようとしている民家は、明治20年の建築。皆さんご存じと思いますが
「出版社・ぎょうせい」の前身である会社の社長を務めた大谷仁兵衛氏の生家にあたるのです。
形を変えて今も存在する「椋川分校」は1875年に開校し、その後この大谷仁兵衛氏の寄贈で
近代的な校舎が大正時代に出来上がったのです。
同様に微妙な薄日に包まれたお昼でした。
午前中、通りがかった高島市朽木へ向かう途中に、以前にもブログにした「今津町椋川」集落が
雪を多く残しての姿があり、数分でしたが立ち寄ってきました。
平成19年10月現在の数字ですが、今津町椋川(むくがわ)地区の世帯数34世帯で64名の住人。
来年度に「都市農村交流施設」として利用される高島市内最大といわれる「かやぶき民家」も
あるところです。今回は時間もなく・・画像で紹介できません。
ちなみに、その利用されようとしている民家は、明治20年の建築。皆さんご存じと思いますが
「出版社・ぎょうせい」の前身である会社の社長を務めた大谷仁兵衛氏の生家にあたるのです。
形を変えて今も存在する「椋川分校」は1875年に開校し、その後この大谷仁兵衛氏の寄贈で
近代的な校舎が大正時代に出来上がったのです。
この集落にも同級生が数人いました。正確に今は思い出せません。小学校は別でしたが、中学校
は別でしたが・・確か彼らは冬期は学校の寄宿舎を利用するのでした。
当時は、なかなか椋川まで出かけることはありませんでした。交通の便も悪く、自転車の遠出も
砂利道ばかりで難しく、日に数本の国鉄バスの往来があったように記憶します。
それでも、良く覚えませんが幼い記憶には、夏休みに出かけたことが思い浮かび、我が家もそう
でしたが茅葺き屋根。そこの椋川集落も茅葺屋根の家並みが浮かびます。
いまも、数件茅葺き屋根は見あたりますが、ほとんどトタンを巻いた家並みになっています。
我が集落のあたり琵琶湖岸に近いところは、何度も書きますが積雪も僅かになりましたが、山間
地の辺りは、ピーク時はどんだけの積雪やったんやと思わせる、冬景色が残ります。
春爛漫は先のことで、もう数回は多かれ少なかれ雪が降ると思います。雪と一緒の生活がしばらく
続きそうです。
画像は、本日午前中の高島市今津町椋川集落の一部風景です。
名水の・・・いい場所です。
Posted by 高島です at 18:21│Comments(0)
│風景