安原専務・江若鉄道・湖西線
2008年02月08日
十数年前の記録からですので・・・ご承知下さい。それとまた、長文ですが・・すいません。
(旧)安曇川町の県立安曇川文化芸術開館で、「以前、教養講座で江若鉄道関連の講座あり
、運良く「川島宇一郎と安原仁兵衛」-明治と大正の政治家-という講座が開かれていて、そ
の資料貰ってきていました。
次第として
1 はじめに
2 人物研究は年譜づくりから
3 ”滋賀県議会の父”川島宇一郎
・・・明治時代の政治家 「滋賀県議会史」第1巻
4 ”江若鉄道生みの親”安原仁兵衛
・・・大正時代の政治家 「滋賀県議会史」第3巻
「滋賀県会会議録」第11号
「立憲政友会滋賀県支部党誌」
5 むすびに変えて
二人の政治家に共通するもの
と題して、開講さてれいました。
残念ながら、出席していませんので詳しくお伝えできませんが、大まかに見ますと次の通りです。
資料としては、川島宇一郎氏の1841年(天保12)10月5日高島郡長尾村に生まれてから県
会当選、県会議長、衆議院当選、高島銀行頭取就任、等の経歴の年譜案が図表にされ資料に。
同様に、安原仁兵衛年譜案があり、以前に書いたような経歴があり最後に、1931年昭和の6
年8月6日江若鉄道雄琴駅にて事故死、58才とあります。
江若鉄道の敷設に尽力した人々は沢山あったのは勿論ですが、その中でも安原さんは、敷設免
許が許可されるまでの最後の締めくくり、後に江若鉄道専務取締役としての働き等、産み親・育て
の親という重要な人物でした。
政治の力で、左右された鉄道ですが、国民党であった安原氏が、江若鉄道実現のため、自らの
思想をまげて政治生命を賭け政友会へ入党で、その代替えとした。その、最期には、不慮の事故
で亡くなるという、運命をたどった人でした。

安原仁兵衛は・・。
呉服商安原仁右衛門の長男として、1874年(明治7年)10月18日に南市に誕生した。
29才のとき上京し明治法律学校(現:明治大学)に入学。1904年(明治37年)3月、3
1才で卒業。故郷帰って、所得調査委員に奉職、その後、1907年(明治40年)10月5
日に高島郡会議員に初当選。
(旧)安曇川町の県立安曇川文化芸術開館で、「以前、教養講座で江若鉄道関連の講座あり
、運良く「川島宇一郎と安原仁兵衛」-明治と大正の政治家-という講座が開かれていて、そ
の資料貰ってきていました。
次第として
1 はじめに
2 人物研究は年譜づくりから
3 ”滋賀県議会の父”川島宇一郎
・・・明治時代の政治家 「滋賀県議会史」第1巻
4 ”江若鉄道生みの親”安原仁兵衛
・・・大正時代の政治家 「滋賀県議会史」第3巻
「滋賀県会会議録」第11号
「立憲政友会滋賀県支部党誌」
5 むすびに変えて
二人の政治家に共通するもの
と題して、開講さてれいました。
残念ながら、出席していませんので詳しくお伝えできませんが、大まかに見ますと次の通りです。
資料としては、川島宇一郎氏の1841年(天保12)10月5日高島郡長尾村に生まれてから県
会当選、県会議長、衆議院当選、高島銀行頭取就任、等の経歴の年譜案が図表にされ資料に。
同様に、安原仁兵衛年譜案があり、以前に書いたような経歴があり最後に、1931年昭和の6
年8月6日江若鉄道雄琴駅にて事故死、58才とあります。
江若鉄道の敷設に尽力した人々は沢山あったのは勿論ですが、その中でも安原さんは、敷設免
許が許可されるまでの最後の締めくくり、後に江若鉄道専務取締役としての働き等、産み親・育て
の親という重要な人物でした。
政治の力で、左右された鉄道ですが、国民党であった安原氏が、江若鉄道実現のため、自らの
思想をまげて政治生命を賭け政友会へ入党で、その代替えとした。その、最期には、不慮の事故
で亡くなるという、運命をたどった人でした。
安原仁兵衛は・・。
呉服商安原仁右衛門の長男として、1874年(明治7年)10月18日に南市に誕生した。
29才のとき上京し明治法律学校(現:明治大学)に入学。1904年(明治37年)3月、3
1才で卒業。故郷帰って、所得調査委員に奉職、その後、1907年(明治40年)10月5
日に高島郡会議員に初当選。
1911年(明治44年)9月、県会議員に出馬し、初当選。1915年(大正4年)9月に再び
県会議員当選し、「滋賀県に知事が二人いる」とまで言わせた政友会の領袖井上敬之助
氏の後を受け継ぎ、第18代の議長に選出された。
この議長在職中に、森知事の就任もありこれをきっかけに、鉄道敷設問題が取り上げられ、
これといった反対もなく県会では実現希望の方向がはっきりしたようです。
1919年(大正8年)9月、三たび県会議員に当選し、満場一致で議長に再び選ばれた。
このとき安原氏は国民党に所属していた。しかし、翌年1920年(大正8年)5月、突如議
長を辞任し、第41回総選挙に出馬し当選するのである。
議長という重責にありながら任期半ばで衆議院議員に出馬したのは、先に書いた「二人に
知事」と言わせた井上敬之助政友会県支部長の要請を受けたものと推測されている。こ
のとき、安原氏はすでに政友会に所属していたのである。
その後1924年(大正13年)5月の第15回総選挙には落選したものの、1928年(昭和
3年)2月の第16回総選挙には返り咲いている。そして、1930年(昭和5年)の総選挙に
は病気のため出馬断念。これより政界から身を引き、江若鉄道専務取締役に専念。
また、安原氏は俳句にも熱心であったようで、正岡子規で有名な「ほととぎす」や鈴鹿野
風呂の創刊した「京鹿子」などの俳句雑誌へ多くの俳句を投稿している。
冬凪や遊べる鴨の多し(ホトトギス)
月の庭45本の竹あるばかり(京鹿子)
虫の寺初夜の勤行初まりぬ(京鹿子)
見なれたる座敷の前の鳰(カイツブリ)(ホトトギス)
などがあり、漢詩、俳句以外でも、囲碁、書道など、多才な教養があふれた人物であっ
たようです。
このような生活の中で、1931年(昭和6年)8月6日がやってくるのである。

専務取締役として、生活していた安原氏は、雄琴駅から乗車し三井寺下の本社へ出社
勤務するという毎日であったが、この日も同じように本社へ出社しようと、雄琴駅構内で、
路線を横断しようとして、折りから駅に停車しようとした列車に接触し急逝してしまった。
58才だったそうです。
この年の1月1日には、安曇から今津間が開通したばかりで、関係者はおおきな衝撃であ
ったそうで、当時の新聞にも大きく写真入りで紹介され、「湖西地方開拓の恩人・温厚な
性格で適がなかった」という見出しであたそうです。
江若鉄道の本来の終着駅「若狭」であったが、結果として完成せず挫折したのは、安原
氏の死が、ある意味ではおおきな要因であったと言われ、安原氏の人生途中下車ととも
に江若鉄道も途中下車してしまったようです。
以上 経歴・年代数字等は安曇川町史から参照
おかげで、現在、京阪神まで僅かな時間で出かけられるし、便利にしてもらって、この湖西
線の枕木の下には、多くの歴史が積み重なっていることを思い、全てのもの、全ての出来
事がいろんな歴史の上に乗って走っているんですね。感謝・感謝。
また、まだ、小さな記事ではあるけれど、湖西と小浜をつなぐ鉄道路線の計画が、なされよ
うとしていると、報じているが、天国で安原氏もニコニコと成り行きを見守っていると感じます・・。
これもまた、歴史の上に歴史が積み重なっていく一部のように思われ、「江若鉄道」自体は
なくなってしまったけれど、その敷設上に20周年JR湖西線が引継、もし、小浜間に鉄道が
出来れば、本当の「江若鉄道」の完成かもしれません。しかし、これもまた、波乱万丈の歴史
が必要のようで・・。

歴史の流れに投げ込まれた人の最後の事故現場の様子を、昭和6年8月7日(金)の大阪朝日
新聞(大阪朝日)滋賀版が下記のように伝えています。
-----------------------------------------------------------
きのふ雄琴驛で
安原前代議士轢死
線路を横切らんとして
神経痛で脚の自由を欠き
滋賀郡雄琴村江若鉄道専務取締役前代議士安原仁兵衛氏(五十八)は
六日午前十一時五十六分平常通り雄琴駅から乗車し三井寺下の江若鉄
道に出社せんとする際同駅構内で折りから進入して来た上り十二列車に・・
(ちょっと解読不能の部分で省略)・・・、胸部を押潰されて無残な即死をと
げた。
同氏はこの日午前十一時四十七分雄琴駅で列車に乗るため二分前に駅
へ来たが列車が約十分遅れたので駅長室で雑談していたところ列車の駅
構内に進入(←ちょっと解読不明で当て字)して来た音を聞き慌てて、駅
長室を出て線路を横切り上りプラットホームに出ようとした時、持病の神経
痛で動作の敏活を欠いていたため左足を線路に引っかけて倒れ約一間
引きずられて既にこの奇禍に逢ったものである。
-----------------------------------------------------------
以上の記事でも、事故死として扱われていましております。
その他、関連記事でも「湖西地方--開拓の人」とか、「温厚な性格でーー適がなかった--」
「社葬にするとか--弔客の応接に多忙を極む」などがある。
簡単ですが、こんな状況で「安原さん」の人生路線がちらりちらりと見えかくれしています。

湖西線の工事
JR湖西線が開通し今年で20数年年経過。でも、言うまでもなく20数年前に、「はい!」スタート
という具合で、開通したわけではなく、それまでにまたまた多種な問題を解決しながらの工事期間
ではなかったと・・・。
一番記憶(そんなに数多く記憶しているんじゃないですが)に残っているのが、トンネル工事に伴う
補償問題です。滋賀県が工事の途中経過として冊子まとめ発刊したものがあるんですが、その中
で、三井寺のトンネル補償問題。白髭神社のトンネル補償問題。峰山トンネル工事に伴うマキノ町
小荒路の水補償問題。が、建設上の問題点と経過と題して記録しています。
昭和46年発刊時点では、三井寺の補償問題は昭和45年金銭補償で円満解決されまたマキノ町
の水補償問題も昭和43年に一応の決着があったようです。
ただ、白髭神社のトンネル問題は発刊時点では未解決となっています。
白髭神社では、トンネルルート変更、聖水の枯れない処置、神社林その他の補償を公団側に申し
入れているが、その回答として「ルート変更は出来ない」「聖水は枯れた時点で協議する」「神社林
その他は補償しないが見舞金程度なら考える」として、さらに三井寺のように金銭額の提示を公団
は要望しているが、神社ではご神体を侵すことを金額で明示できないとし、物別れに終わっている。
その後の交渉で、工事の進展途中で問題が起これば、速やかに協議することとなり、掘削工事が
始まった。
マキノ町小荒路の水補償問題でも、峰山トンネルの掘削工事の進展にともない小荒路集落(67戸
、309人)では、農業用水や飲料水、雑用水まで一切を万治川に依存していたが、昭和43年春ご
ろから水不足が生じて、公団へ対策を申し入れ、同時に応急処置として、手押しポンプの打ち込み
や、火災に備えての消化器配置など、水対策に苦慮。公団側もトンネル工事が完了すれば水は復
元するとし、その間の措置として次のことで急場を凌いだ。
田用水については、万治川からパイプ送水(万治川渇水後は知内川からポンプ送水)飲料水につ
いては、工費360万円を投じて万治川の上流に貯水槽と配管工事を施工し送水(万治川渇水後
は上流の野口集落から引水)
しかし、工事完了近くになっても復元の見通しがないと公団側が判断し、北西の知内川でボーリン
グ調査し、地下から毎分1トンの水源を発見したが、水質検査で飲料水としては不適当と判明。だ
が、他に適当な水源地が見あたらず、この水を人体に影響のない水質にする除去装置をつけ、20
馬力のモーター1台で毎分0.5トンの地下水を汲み上げ、1200m先の元の水道配水槽へ逆水。
もう1台のモーターで毎分0.5トンの水を田用水にあてた。
今後この施設維持管理の補償問題はもこったが、一応水問題が決着した。・・としている。
他にも、勿論多大の問題発生する。ルート問題、駅名問題、文化財への対策、工事資材運搬の
対策、用地の買収、駅前整備、なんでもそうでしょうが、簡単に工事がすすんで完成し、何気なく
いろんな愚痴、不平を言いながら乗車する湖西線ですがこれまた、関係した人々の功績が見えか
くれし、またまた「安原」氏の時代に思いを馳せるひとときです・・・。
県会議員当選し、「滋賀県に知事が二人いる」とまで言わせた政友会の領袖井上敬之助
氏の後を受け継ぎ、第18代の議長に選出された。
この議長在職中に、森知事の就任もありこれをきっかけに、鉄道敷設問題が取り上げられ、
これといった反対もなく県会では実現希望の方向がはっきりしたようです。
1919年(大正8年)9月、三たび県会議員に当選し、満場一致で議長に再び選ばれた。
このとき安原氏は国民党に所属していた。しかし、翌年1920年(大正8年)5月、突如議
長を辞任し、第41回総選挙に出馬し当選するのである。
議長という重責にありながら任期半ばで衆議院議員に出馬したのは、先に書いた「二人に
知事」と言わせた井上敬之助政友会県支部長の要請を受けたものと推測されている。こ
のとき、安原氏はすでに政友会に所属していたのである。
その後1924年(大正13年)5月の第15回総選挙には落選したものの、1928年(昭和
3年)2月の第16回総選挙には返り咲いている。そして、1930年(昭和5年)の総選挙に
は病気のため出馬断念。これより政界から身を引き、江若鉄道専務取締役に専念。
また、安原氏は俳句にも熱心であったようで、正岡子規で有名な「ほととぎす」や鈴鹿野
風呂の創刊した「京鹿子」などの俳句雑誌へ多くの俳句を投稿している。
冬凪や遊べる鴨の多し(ホトトギス)
月の庭45本の竹あるばかり(京鹿子)
虫の寺初夜の勤行初まりぬ(京鹿子)
見なれたる座敷の前の鳰(カイツブリ)(ホトトギス)
などがあり、漢詩、俳句以外でも、囲碁、書道など、多才な教養があふれた人物であっ
たようです。
このような生活の中で、1931年(昭和6年)8月6日がやってくるのである。
専務取締役として、生活していた安原氏は、雄琴駅から乗車し三井寺下の本社へ出社
勤務するという毎日であったが、この日も同じように本社へ出社しようと、雄琴駅構内で、
路線を横断しようとして、折りから駅に停車しようとした列車に接触し急逝してしまった。
58才だったそうです。
この年の1月1日には、安曇から今津間が開通したばかりで、関係者はおおきな衝撃であ
ったそうで、当時の新聞にも大きく写真入りで紹介され、「湖西地方開拓の恩人・温厚な
性格で適がなかった」という見出しであたそうです。
江若鉄道の本来の終着駅「若狭」であったが、結果として完成せず挫折したのは、安原
氏の死が、ある意味ではおおきな要因であったと言われ、安原氏の人生途中下車ととも
に江若鉄道も途中下車してしまったようです。
以上 経歴・年代数字等は安曇川町史から参照
おかげで、現在、京阪神まで僅かな時間で出かけられるし、便利にしてもらって、この湖西
線の枕木の下には、多くの歴史が積み重なっていることを思い、全てのもの、全ての出来
事がいろんな歴史の上に乗って走っているんですね。感謝・感謝。
また、まだ、小さな記事ではあるけれど、湖西と小浜をつなぐ鉄道路線の計画が、なされよ
うとしていると、報じているが、天国で安原氏もニコニコと成り行きを見守っていると感じます・・。
これもまた、歴史の上に歴史が積み重なっていく一部のように思われ、「江若鉄道」自体は
なくなってしまったけれど、その敷設上に20周年JR湖西線が引継、もし、小浜間に鉄道が
出来れば、本当の「江若鉄道」の完成かもしれません。しかし、これもまた、波乱万丈の歴史
が必要のようで・・。
歴史の流れに投げ込まれた人の最後の事故現場の様子を、昭和6年8月7日(金)の大阪朝日
新聞(大阪朝日)滋賀版が下記のように伝えています。
-----------------------------------------------------------
きのふ雄琴驛で
安原前代議士轢死
線路を横切らんとして
神経痛で脚の自由を欠き
滋賀郡雄琴村江若鉄道専務取締役前代議士安原仁兵衛氏(五十八)は
六日午前十一時五十六分平常通り雄琴駅から乗車し三井寺下の江若鉄
道に出社せんとする際同駅構内で折りから進入して来た上り十二列車に・・
(ちょっと解読不能の部分で省略)・・・、胸部を押潰されて無残な即死をと
げた。
同氏はこの日午前十一時四十七分雄琴駅で列車に乗るため二分前に駅
へ来たが列車が約十分遅れたので駅長室で雑談していたところ列車の駅
構内に進入(←ちょっと解読不明で当て字)して来た音を聞き慌てて、駅
長室を出て線路を横切り上りプラットホームに出ようとした時、持病の神経
痛で動作の敏活を欠いていたため左足を線路に引っかけて倒れ約一間
引きずられて既にこの奇禍に逢ったものである。
-----------------------------------------------------------
以上の記事でも、事故死として扱われていましております。
その他、関連記事でも「湖西地方--開拓の人」とか、「温厚な性格でーー適がなかった--」
「社葬にするとか--弔客の応接に多忙を極む」などがある。
簡単ですが、こんな状況で「安原さん」の人生路線がちらりちらりと見えかくれしています。
湖西線の工事
JR湖西線が開通し今年で20数年年経過。でも、言うまでもなく20数年前に、「はい!」スタート
という具合で、開通したわけではなく、それまでにまたまた多種な問題を解決しながらの工事期間
ではなかったと・・・。
一番記憶(そんなに数多く記憶しているんじゃないですが)に残っているのが、トンネル工事に伴う
補償問題です。滋賀県が工事の途中経過として冊子まとめ発刊したものがあるんですが、その中
で、三井寺のトンネル補償問題。白髭神社のトンネル補償問題。峰山トンネル工事に伴うマキノ町
小荒路の水補償問題。が、建設上の問題点と経過と題して記録しています。
昭和46年発刊時点では、三井寺の補償問題は昭和45年金銭補償で円満解決されまたマキノ町
の水補償問題も昭和43年に一応の決着があったようです。
ただ、白髭神社のトンネル問題は発刊時点では未解決となっています。
白髭神社では、トンネルルート変更、聖水の枯れない処置、神社林その他の補償を公団側に申し
入れているが、その回答として「ルート変更は出来ない」「聖水は枯れた時点で協議する」「神社林
その他は補償しないが見舞金程度なら考える」として、さらに三井寺のように金銭額の提示を公団
は要望しているが、神社ではご神体を侵すことを金額で明示できないとし、物別れに終わっている。
その後の交渉で、工事の進展途中で問題が起これば、速やかに協議することとなり、掘削工事が
始まった。
マキノ町小荒路の水補償問題でも、峰山トンネルの掘削工事の進展にともない小荒路集落(67戸
、309人)では、農業用水や飲料水、雑用水まで一切を万治川に依存していたが、昭和43年春ご
ろから水不足が生じて、公団へ対策を申し入れ、同時に応急処置として、手押しポンプの打ち込み
や、火災に備えての消化器配置など、水対策に苦慮。公団側もトンネル工事が完了すれば水は復
元するとし、その間の措置として次のことで急場を凌いだ。
田用水については、万治川からパイプ送水(万治川渇水後は知内川からポンプ送水)飲料水につ
いては、工費360万円を投じて万治川の上流に貯水槽と配管工事を施工し送水(万治川渇水後
は上流の野口集落から引水)
しかし、工事完了近くになっても復元の見通しがないと公団側が判断し、北西の知内川でボーリン
グ調査し、地下から毎分1トンの水源を発見したが、水質検査で飲料水としては不適当と判明。だ
が、他に適当な水源地が見あたらず、この水を人体に影響のない水質にする除去装置をつけ、20
馬力のモーター1台で毎分0.5トンの地下水を汲み上げ、1200m先の元の水道配水槽へ逆水。
もう1台のモーターで毎分0.5トンの水を田用水にあてた。
今後この施設維持管理の補償問題はもこったが、一応水問題が決着した。・・としている。
他にも、勿論多大の問題発生する。ルート問題、駅名問題、文化財への対策、工事資材運搬の
対策、用地の買収、駅前整備、なんでもそうでしょうが、簡単に工事がすすんで完成し、何気なく
いろんな愚痴、不平を言いながら乗車する湖西線ですがこれまた、関係した人々の功績が見えか
くれし、またまた「安原」氏の時代に思いを馳せるひとときです・・・。
Posted by 高島です at 21:30│Comments(3)
│記憶に残したい
この記事へのコメント
>ポンチョさんへ
夢は大きく地元にも・・でも、世の中なかなか上手いこといきません。
一つの公共的なものを見ても、奥深い歴史があることは確かですね。
夢は大きく地元にも・・でも、世の中なかなか上手いこといきません。
一つの公共的なものを見ても、奥深い歴史があることは確かですね。
Posted by 高島
at 2008年03月24日 08:16

私は湖東なので江若鉄道は名前しか知りませんが、鉄道建設には歴史があるのですね。今計画されている小浜への新線、実現すればいいですね。小浜方面からは、バス路線で今津へ出て湖西線で京都方面へ行くのが便利と聞いています。鉄道が実現すればもっと便利になるでしょうね。いつの時代かこんな歴史が語られるのでしょうか。
一方、近江鉄道と信楽高原鉄道を利用し、京都南部から大阪へ至るびわこ京阪奈線構想もあります。鉄道新線の実現には何十年という歴史があることを思うと、これらの取り組みを継続していくことが大事だと思います。
一方、近江鉄道と信楽高原鉄道を利用し、京都南部から大阪へ至るびわこ京阪奈線構想もあります。鉄道新線の実現には何十年という歴史があることを思うと、これらの取り組みを継続していくことが大事だと思います。
Posted by ポンチョ
at 2008年03月23日 13:50

この時代を余り知りませんので毎回勉強になります。
ご苦労さまです。
しかし、降りませんねぇ
ご苦労さまです。
しかし、降りませんねぇ
Posted by 散髪屋さん at 2008年02月09日 08:17